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【第二支会】第二支会の概況・歴史

  • [2015年5月18日]
  • ID:1541

第二支会の概況・歴史

第二支会の概況・歴史

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1 概 況

 本地域は青梅市の東南に位置し、地域の中央を西から東南方向に流れる多摩川の河岸段丘上に形成された集落で、南は長淵丘陵あるいは大荷田丘陵とも呼ばれる草花丘陵を境に日の出町・あきる野市に接し、北は段丘を介して旧青梅町から東青梅地区に接している。

 最高地点は、かつて交通の要所として利用されてきたこんにゃく峠とも呼ばれる二ツ塚峠で、標高356メートルにして境界となる草花丘陵の最高地点でもある。

 明治の末年、若山牧水はこの峠で「野の坂の 春の木立の葉隠れに 古き宿見ゆ武蔵の青梅」と詠んでいる。

 概して、本地域は西南に高く東北に向かい低くなり、また丘陵部は多く平坦部は少なく、その形状は多摩川流域に沿い東西に長く南北に短くなっており、面積は約10キロ平方メートルで、多摩川の右岸を占める駒木町、上長淵、下長淵、友田町、流域を隔て左岸に位置する千ヶ瀬町の5地区からなっている。この地区の名称は調布村誕生以前の村名を基にしており、古くは新編武蔵風土記稿などに出てくる名称を継承しているといえる。

 かつては青梅夜具地を織り出す機業のまちであった本地域も、時代とともにさまざまな職業をもつ人々の住宅地として生まれ変わり、高層のマンションもみられるようになっている。

 

(写真)下奥多摩橋と貝の化石の話がある大岳山遠望・二ツ塚峠

(写真)下奥多摩橋と貝の化石の話がある大岳山遠望・二ツ塚峠

 

 交通の面では、多摩川の南側を走る吉野街道と北側を走る千ヶ瀬パイパスが主な幹線道路であり、吉野街道の一部は昭和57年4月に国道411号線になり、古くは成木石灰も運ばれたあきる野市との境を成す満地峠のトンネルは平成6年2月に新満地トンネルが完成し、より安全な交通が確保されてきた。

 一方、昔から交通の妨げとなってきた河川には、地形上の技術や経費の面から橋を架けることのできない場所には渡し場を設け、南北の交通を図ってきた。本地域を流れる多摩川にも、千ヶ瀬の渡し、友田の渡し、河辺の渡し、大柳の渡しがあった。しかし、これらの渡し場も明治後期から昭和初期にかけ橋が建設され、その役目を終えている。現在、上流から万年橋、調布橋、下奥多摩橋、多摩川橋と橋が架かっている。明治期における万年橋の姿を大下藤次郎の水彩画に見ることができる。

 

(写真)調布橋・多摩川橋

(写真)調布橋・多摩川橋

 

 多摩川は、山梨県笠取山の水樋を水源とし、一ノ瀬川、丹波川とその名称を変え奥多摩湖を過ぎ多摩川となり、本地域に西方から入り友田町方砂で羽村市に下っている。流域の景観について、調布村誌資料は「其の流域に於ける碧潭の主なるものを擧くれは左の如し」として「釜の淵、赤岩(駒木野)、樫の木淵(千ヶ瀬)、次郎淵(上長淵)、猿淵(下長淵)、浅間淵(友田)、白はけ(河邊)」など16か所を挙げている。現在、釜の淵には「かんぽの宿 青梅」が多摩川を望んで建ち、訪れる利用客も多い。

 支流は数筋あり、清美川は駒木町喜代沢で、鳶巣川は下長淵で、大荷田川(大仁田川)は友田町方砂で多摩川にそれぞれ合流している。

 

(写真)多摩川と長淵方面

(写真)多摩川と長淵方面

 

 教育面では、市立の第二小学校、友田小学校、第二中学校があり、また長淵丘陵の一角には明星大学青梅校舎が建つ。一方、釜の淵公園には市立郷土博物館があり、重要文化財である旧宮崎家住宅とともに青梅の歴史と文化を伝えている。また、体育施設として友田レクリエーション広場、長淵水泳場が多摩川河畔に設置されている。

 幼児教育、児童福祉にあっては幼稚園1か所、保育園6か所があり、介護老人福祉施設としては4か所の特別養護老人ホームが在る。一方、駐在所は4か所に置かれ防犯の要になっている。

 調布村誌資料は、「本村地球上の位置を測定せるに其の経緯度は左の如し。西端駒木野 東経139度14分37秒、東端友田 東経139度17分50秒、南端友田 北緯35度45分9秒、北端千ヶ瀬 北緯35度47分5秒、」と記している。

 

2 歴 史

 すでに縄文時代中期にはこの地に人々は住んでおり、千ヶ瀬遺跡、駒木野遺跡、寺改戸遺跡、喜代沢遺跡から当時の生活をうかがえる多くの遺物が出土している。また友田町の方砂遺跡から発見された敷石住居は小金井市の江戸東京たてもの園に移設保存されている。

 中世この地を支配したのは三田氏で、室町時代の終り頃からその勢力範囲が三田谷と呼ばれるようになり、江戸時代には三田領となり、この名称は明治維新まで用いられていた。市の有形文化財である友田の鰐口や下長淵の旧宝林寺文書に三田氏の関係を見ることができる。

   近世に入り徳川家康が関東に入国すると、この地方は森下に設置された陣屋の支配下におかれている。延宝8年(1680)の森下陣屋支配地の中に三田領(羽村以西)の名をみることができる。

 

(写真)喜代沢遺跡を望む(博物館上からのながめ)

(写真)喜代沢遺跡を望む(博物館上からのながめ)

 

 江戸時代中頃になると青梅は経済的にもめぐまれ、江戸との交流を背景に文芸活動も盛んになり、さまざまな分野の作品が残っている。

 寛政10年(1798)駒木野に生まれた石川文松は、青梅の宿で蒟蒻製造を営んでいたが、江戸に出て蒔絵師となり、のち谷文晁の門に入り一家をなしている。画業には山口観音堂の六歌仙の大額・武蔵村山市真福寺本堂杉戸の十六羅漢図、天井の百花百鳥などがある。畑中の生まれともいう。また二世好々居を継いだ浜中調布は、明治から昭和にわたるこの地方の俳壇の宗匠で、本名は浜中丈之助。調布村長として「調布村史資料」を編纂している。この頃、多摩川の鮎には「鮎運上」と呼ばれる税金がかかっており、駒木野・長淵・友田の各村が鮎運上を差し出している。

 また、多摩川上流で切り出された木材は「青梅材」とよばれ、筏に組まれ江戸まで運ばれていた。千ヶ瀬の河原は筏会所があったところで、筏はこのあと羽村堰、拝島、立川と多摩川を下っていった。

 一方、江戸時代庶民の間では伊勢神宮参詣が盛んになっている。市史史料集「村鏡(上長淵村)」には、伊勢神宮参詣など遠くの国へ旅する際の準備事項が記されており、その内容から庶民は簡単に旅に出ることはできなかったものの、伊勢神宮参詣は例外であった様子を知ることができる。

 

(写真)千ヶ瀬の筏会所跡・第二支会運動会

(写真)千ヶ瀬の筏会所跡・第二支会運動会

 

 明治維新をむかえ、上長淵、下長淵は前橋県に、他は韮山県に属す。明治22年(1889)駒木野、上長淵、下長淵、友田、千ヶ瀬、河辺の6村が合併して調布村が誕生した。東京府編入は4年後の明治26年(1893)である。

 明治4年(1872)この地方初の郷学校「協心神習舎」が創設された。現在の市立第二小学校の前身であり、学制発布(明治5年)の前年のことであった。後年市内には、明治43年に府立農林学校が開校し、大正12年(1923)には青梅町外六ケ村組合立実科高等女学校が開校しており創立時の教員には作家・高垣眸がいる。

 青梅の織物は、伝えるところでは室町時代後期に始まるといわれるが、はっきりとした資料はない。青梅の織物が文献にあらわれたのは享保17年(1732)の「万金産業袋」で、青梅島(縞)という名で記されている。

 本地域では明治時代になると蚕業や織物製造業が盛んになっている。市史に載っている「大正2年における市域内工場・会社数」の工場(従業員は10人以上)をみると、20か所のうち16か所が調布村にあり、すべて主要製品は織物関係であった。戦前の織物の最盛期は昭和11、12年頃といわれている。

 

(写真)調布村道路元票・調布橋と「雪おんな縁の地」の碑

(写真)調布村道路元票・調布橋と「雪おんな縁の地」の碑

 

 日中戦争から第二次世界大戦へと戦争が拡大していくと、戦時物資として重要な金属類の不足を補うため金属の回収が行われ織機も例外ではなかった。昭和18年織物工場を軍需工場へという戦争政策に織物業界は転換期を迎えたのである。

 戦後の織物業界を救ったのは昭和25年に勃発した朝鮮戦争で、軍事物資の調達と海外からの需要で商品価格が急騰し好景気が出現した。いわゆるガチャマン景気である。高度成長期に入ると生活も変化していき、夜具地の需要も減退していった。その後タオル製品の生産も開始され、昭和50年代後半にはタオル、シーツが主要製品となっていった。東海道中膝栗毛、江府風俗史などに出てくる青梅縞から時代を経て、着尺地から夜具地、浴衣地そしてタオルやシーツへ、小幅織物から広幅織物へと織物も変遷してきたのである。

 

(写真)鮎美橋(釜の淵公園)

(写真)鮎美橋(釜の淵公園)

 

 昭和26年、調布村、青梅町、霞村の1町2村は合併し青梅市となる。

 調布小学校、調布中学校が現在の第二小学校、第二中学校になったのは昭和28年のことであり、友田小学校の創立は昭和52年である。

 また、地域に親しまれた分校は、昭和37年に千ヶ瀬分校が、昭和41年に友田分校、駒木野分校がその歴史を閉じている。

 市民センターの開設は昭和52年であり、昭和60年には青梅消防署長淵出張所が開設されている。また、友田町を通る首都圏中央連絡自動車道の青梅・日の出間が開通したのは平成14年のことであった。

 

(写真)圏央道・調布大祭

(写真)圏央道・調布大祭

 

 

 往昔、長淵郷に属していた本地域は、調布村の時代を経て青梅市誕生とともに市役所の長淵出張所が置かれたことから「調布地区」あるいは「長淵地区」と呼ばれるようになっている。

 調布村の村名であるが、奈良時代の税の一つに調があり、この地域では布を織って調として納めていたことから名付けられたもので、調布村誌資料は「村名調布の由来を繹ぬるに、抑も・・・始めて貢調のため調連を置かれて、・・・又、手末之調とは女の手にて造れる糸織物の類を貢に奉るの義なり。然るにいつか調布と書き手作(多都久里)と唱ふるに至れり。是れ即ち調布のはしめなりと云へり」そして「・・・現時は本郡織物總産額の約其の四割を製産するの状況にあり。仍て當地に最も由緒深き萬葉集武藏國歌たる多都久里の歌の意を埰て以て村名と爲せし所以なり」と記している。

 万葉集(巻十四) 多摩川にさらす手づくりさらさらに何ぞこの児のここだ愛(かな)しき

 

 長淵の地名については詳らかではない。調布村誌資料は「抑々(そもそも)長淵の郷名の因(よ)って出る處(ところ)確證(かくしょう)なしと雖(いえど)も其の蜿蜒(えんえん)たる多摩の清流到(いた)る處(ところ)碧潭(へきたん)深淵(しんえん)を湛(たた)へる風光を賛美しての命名たること言を俟(また)さるへし」という。

 

 

 

<主な参考文献>

青梅市郷土博物館編「青梅市史史料集第1・2号 村鏡(上長淵村)」

青梅市郷土博物館編「青梅市史史料集第44号 青梅郷土誌」

青梅市郷土博物館編「青梅市史史料集第45号 調布村誌資料」

青梅市史編さん実行委員会編「定本市史 青梅」

青梅市史編さん委員会編「増補改定 青梅市史」

青梅市教育委員会編「青梅歴史物語」

青梅市教育委員会編「青梅を歩く本」

駒木町史編纂委員会編「青梅市駒木町史」

雄山閣 「新編武蔵風土記稿第6巻」

青梅市自治会連合会編「青梅の自治会 青梅市自治会連合会25周年記念誌」

お問い合わせ

青梅市自治会連合会  第二支会(長淵市民センター)
電話: 0428-22-3249 ファクス: 0428-24-3749