第九支会を構成する新町・末広町地区は、青梅市の東端に位置し、東南は羽村市小作地区、東は西多摩郡瑞穂町長岡地区、北は今井、藤橋、今寺地区、西は野上、河辺地区に接した地域です。
青梅線小作駅を玄関口として、南北には小作駅から藤橋小作線(都道181号線)が今寺、藤橋方面に通じています。
また東西には、江戸時代より歴史のある青梅街道(都道5号線)が隣の瑞穂町から新宿方面に通じ、その街道両側に、区画街路が縦横に展開して市街地を形成しています。
青梅街道(瑞穂方面を望む)
新町は、江戸時代の初めの1611年(慶長16年)に師岡村の名主、吉野織部之助(よしの おりべのすけ)が開拓を始めました。近傍19箇村より同士を募り、1616年(元和2年)に開拓を終えました。
当時の二代将軍徳川秀忠の武蔵野開発の方針と、吉野織部之助の新田を切り開く新しい村造りの願いが一致して、八王子代官の許可がおりて開発に着手した。
開発には下記のような創意・工夫が施された。
・ 埼玉県狭山市から八佐衛門という井戸掘りの職人を招き、井戸をつくる
・ 市場を立てる事と将来の宿場を想定して屋敷の間口を狭くする
・ 軽砂土のための防風林、野獣避けの土手を設置
・ 日本七道(東海道など)にちなみ主要七道(江戸道(2)・秩父道・御伝馬道・八王子道(2)・川越道)を定める
・ 吉野織部之助の旧友の息子で虚無僧である月山養風和尚を葦草村(いぐさむら=川越市)から迎え鈴法寺を建立。普化宗括総派本山となり、千葉県松戸市の一月寺と共にわが国に2か寺しかない寺となった。
・ 羽村の一峯院に願出し、秋岩和尚を住職として村の東側に東禅寺を建立。
・ 吉野織部之助の父の生国である奈良県吉野町の金峯山の蔵王権現を祭祀して、御嶽神社を建立。神主には羽村の宮川長門守の次男。
この開拓事業は、徳川八代将軍の吉宗の時代に盛んに行われた町人請負新田や村請新田とは趣きを異なり、徳川時代初期に農村の定期市場の基礎として開発された見立新田で、開拓史上特異な存在である。
旧吉野家住宅(新町1丁目)
この開拓は新田が開発された江戸幕府奨励の武蔵野開発の「モデルケース」となった。
「臼は伊奈臼、新町小麦」と歌にまで唄われるほど品質の良い小麦や、「新町相場」と呼ばれ、毎年取引価格を近郷諸村において新町村を標準とされた油の原料である荏(え)など、宿場的発展をみた。
1617年には新町への市場を立てる計画を行い、7日と27日両日の権利を藤橋村から貰い受けた。その後に4日、14日、19日、24日と合わせて1月に6日の市を開きにぎわいをみせるようになった。
江戸中期には旅籠屋や問屋もあるほどの活況を呈したが、1829年には7日、27日両日の市の日取りをめぐって青梅宿と市争いを行った。数年にもおよぶ争いであったが1838年に青梅側が勝訴し、その後は市は衰微することとなった。
現在も住宅街の中に畑が多く残る
明治時代以降、国の廃藩置県および中央集権化により新町村は周囲の町や村と合併を繰り返し、青梅市の一地域となった。
下記はその変遷です。
年 | 区域名 | 背景 | 区域内の町・村 |
1873年(明治6年) | 神奈川県第13大区第1小区 | 区画改正法 | 新町、大門、吹上、野上、塩船村 |
1884年(明治17年) | 今寺村外11ヶ村連合 | 町村制度改正 | 上記の他、今寺、木野下、谷野、藤橋、今井、師岡、根ヶ布村 |
1889年(明治22年) | 霞村 | 市制町村制 | 同上 |
1951年(昭和26年) | 旧青梅市 | 上記の他、青梅町、調布村 | |
1955年(昭和30年) | 現青梅市 | 町村合併促進法(昭和28年) | 上記の他、吉野、三田、小曾木、成木村 |
1960年(昭和35年)、日本住宅公団が青梅市東部、羽村町(現羽村市)にまたがる約50万坪の区域を工業団地として造成することを決定した。この区域は一病院と10数戸の住宅がある程度で、あとは一面の農地と平地林であった。
1961年(昭和36年)に土地区画整理を施行すべき区域として都市計画決定、1963年(昭和38年)に区画整理の事業が認可を受けて、1966年(昭和41年)に都市区画整理事業(西東京工業団地)が完成した。
1966年(昭和41年)、それに併せて新町の一部と羽村町の境界の一部が変更となり、新町の一部と羽村町からの境界変更編入地に末広町1丁目、2丁目が設定された。
末広町2丁目にある末広公園
なお、新町・末広町を区域とする第九支会はこの後、1973年(昭和48年)に発足することとなります。
後半は第九支会発足からとなります。
青梅市自治会連合会 第9支会(新町市民センター)
電話: 0428-31-7337
ファクス: 0428-32-3674
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